今回はカンヌ国際映画祭のコンペティション部門で脚本賞を受賞して話題になりまくっている「怪物」について考察含めて書いていきたいと思います!
是枝監督作品は割と観ている方ですが、ドラマチックにしない描き方から苦手意識がずっとありました。だけど、本作は本当に観て良かったと思いました。
特にラストカットにはグッときてしまったし、とにかく色んな人に観てほしい作品です。
鑑賞オススメ点数・・・80点
あらすじ
大きな湖のある郊外の町。
息子を愛するシングルマザー、
生徒思いの学校教師、そして無邪気な子供たち。
それは、よくある子供同士のケンカに見えた。
しかし、彼らの食い違う主張は次第に社会やメディアを巻き込み、
大事になっていく。
そしてある嵐の朝、子供たちは忽然と姿を消した―。(HPから抜粋)
以下、ネタバレ含みます。
(1)3つの視点から描かれる「ある出来事」
本作では、息子思いのシングルマザーからの視点、湊の担任教師からの視点、そして湊からの視点の3つの視点から描かれていきます。
3者から特定の事件を見せていき、検証して何が真実で、何が正義で悪なのか、を炙り出していくという構成ですね。まさか3幕構成のスタイルで来るとは思っていなかったので、驚きました。
この3つの視点の構成は黒澤明の『羅生門』が有名ですよね。最近だと、リドリー・スコットの『最後の決闘裁判』が傑作でした。
構成のアイデアは川村元気プロデューサー曰く、坂元裕二が得意なテレビドラマの尺で走り切るための策として用いられたそうです。ドラマの尺である45分の物語を数本立てで描く。まさに3幕構成のスタイルが完璧にハマったのだと思います。
物語はまず最初に湊の母からの視点。
シングルマザーで苦労して息子を育ててきた早織にとって湊は宝物のような存在で、心から愛している姿が安藤サクラの演技からも伝わってきました。ある時から湊の様子がおかしくなり、原因が担任教師による暴行だと突き止めます。
早織の視点からすると、担任教師の保利先生の態度はひどく、謝罪も適当でやる気もないように見える。教師や校長、その他の関係者たちの態度も似ていて、とてつもなく酷い人間たちの印象を観客側も受けます。
早織のフィルターがかかった1幕目の演出なので、保利先生は人間の心がなく、何の対応もしてくれない暴力教師として登場します。この主観視点で本作のミスリードは始まっていきます。
次に、担任教師からの視点。
早織が経験した日々と同じ出来事を保利先生からの視点で追っていく展開です。保利先生からの視点では、熱血教師までは行かないが、しっかりと生徒のことを見る優しい先生として描かれるのです。
早織から見た保利先生のキャラクターとまるで違う人間として存在します。少しだけ変わったところがあり、それが第三者から誤解を受けやすい人物としても描かれます。
あらゆる勘違いや湊の嘘の証言、学校からの隠蔽で保利の人生は歪んでいく。ついには暴力や暴言の冤罪をかけられ公然の場で謝罪会見をさせられ、週刊誌におわれて雑誌に顔まで晒されてしまいます。あまりにも可哀想な人生の転落です。
そして最後に湊からの視点。
湊からの視点によって、それまで描かれてきた不可解な点の解像度が上がっていきます。なぜ、湊が嘘の証言をし、保利を追い詰めたのか。それは決して小学5年生の口からは言えない真実でした。
その葛藤に押し潰されそうになり、家や学校で暴れるようなおかしな行動を取っていた訳です。その行動に早織は過剰に心配してしまい、思い込みからも保利のせいだと決めつけて、大きな問題となっていってしまった。
湊からの視点で描かれるのは思春期の揺れ動く性の自認。いじめられっ子のクラスメイトの少年・依里に友情を超えた特別な感情を持ってしまいます。同性である少年に好意を持ってしまったことで、自分は怪物、「豚の脳」なんだと苦悩していくことになるのです。
3つの視点から別々の社会問題が浮き彫りになっていくところが、本作の秀逸なところだと思います。
1部ではシングルマザー、2部ではモンスターベアレント、3部ではLGBTQです。
物事は全て多面的であるはずなのに、主観と思い込みで、善悪の境界が曖昧になる。自分のアングルだけで世界を見ようすることがいかに危険か、訴えかけていたように思います。
しかし、3つの問題に加えてさらなる深い問題が見え隠れしていることも気づくはずです。それは依里の父の存在です。彼の存在がDV、ネグレクト、そして事件の根源という闇深い問題を表していきますが、それは(3)で後述しようと思います。
(2)是枝裕和×坂元裕二×坂本龍一 の化学反応
主演は『万引き家族』以来のタッグとなる、安定の安藤サクラです。安藤サクラについては、どの作品に出て何の役をやっても良くなりますよね。作品に溶け込む演技力は、是枝監督が絶大な信頼を置くのも納得です。
物事をドラマチックに描きすぎない、徹底したリアリズムと人物に寄り添うカメラの視点が、是枝監督の持ち味であり、世界で評価される所以だと思いますが、それゆえにどの作品も物足りなさがあって、あまり好きになれませんでした。
が、それを今回解消してくれたのが、坂元裕二の脚本です。『花束みたいな恋をした』など、第一線で活躍する脚本家の坂元裕二も是枝監督同様、ネグレクトや犯罪について描いてきた現実主義の作家さんです。
ただ、是枝監督よりも少しだけドラマチックな展開と心に訴えかけるようなシーンを描くのも得意だと感じます。その二人の掛け算が見事にハマり、本作は素晴らしい映画に昇華したのだと思います!
ありふれた日常を描きながらも現代日本に蔓延る社会問題の炙り方、展開と構成のうまさ、人物に寄り添うようなカメラの視点、それらが見事に化学反応を起こし、今回の傑作が誕生しました。
寄り添うような主張しすぎない坂本龍一の音楽も本当に良かったですよね。
登場人物たちの感情の機微をうまく捉え、映画にスパイスを添えていたようでした。
そして私が特に言いたいのは、何と言っても依里を演じた柊木陽太という俳優が凄さです。またしても天才少年が現れました。湊が密かに想いを寄せてしまう魅力的な少年であり、全ての問題の核となる重要な難役を、11歳にして演じ切っていたのが衝撃でした。
現在11歳なので、撮影当時はさらに若かったということですもんね。
思わず見惚れてしまう容姿と陰のある表情、怪物というミスリードを一手に引き受け、気味悪さすら途中まで匂わせていました。
時折見せる哀しげなアンニュイな表情も柊木陽太が演じたからこそ、この映画が納得度の高い現実味を帯びた物語になったのだと思います。柊木陽介の今後の活躍が楽しみです。
(3)怪物とは何か
物語が終盤に近づいていくと、本作のキャッチコピーである「怪物だーれだ」は単なる子供の遊びでカードゲームの呼びかけであることがわかります。日本ではインディアン・ポーカーとして馴染みのあるトランプゲームですよね。
インディアン・ポーカーは別名「コヨーテ」というゲーム名もあります。本作でわざわざ選んだコヨーテの意図とは何なのか。
コヨーテは、嘘やハッタリを交え相手を騙すゲームです。
改めてルールを言語化すると、本作のテーマ性にぴったりで少し鳥肌が立ってしまいます。
湊と依里の二人の関係性は、周囲の人間に言えず嘘とハッタリを交えてしか話せないことを暗喩しています。
「怪物だーれだ」という掛け声とカードに描かれる豚や化物のイラストが前半のミスリードを生む秀逸な構成になっているし、ゲーム同様に騙された人がほとんどなはずです。
この映画自体が嘘とハッタリにまみれた物語であると、挑戦的な宣言をしているかのようです。
さて、本作の大きなテーマである何が怪物なのか?ということについて考えたいと思います。
湊や依里が自ら怪物だ、と自認するのは同性同士の恋心に気づいたからです。自分は異常なのか、自分は怪物なのか。そんな問いかけも見えてきます。湊からすると、母が望む「結婚して普通の家庭を築くこと」から反する感情を抱いてしまい、罪悪感に苛まれます。
しかし、この作品が単なる同性愛をテーマにしただけの物語ではないところが、さらに深みと奥行きを与えていることに途中で気づきます。
前半のシングルマザー、モンスターペアレント問題だけでもありません。
本作において、最も悪役であり、怪物的な人物として描かれているのは中村獅童演じる依里の父親です。彼は一元的なキャラとしか描かれず息子の同性愛に気づき病気と断定し「豚の脳」だとイメージを植え付けることになんの疑いも持たずにやっているように見えました。
現代における価値観と真っ向から対抗するこの醜悪な決めつけが、さまざまな無理解と混沌を巻き起こしているのです。
『怪物』では登場人物は多面的な人物像として写し出され、善悪の判別がつきづらく、見る人の視点によって人物像が変わるという仕掛けが施されていました。
しかし、依里の父は一方的な悪役として登場します。依里の父が登場したのは、保利からの視点と湊からの視点です。どちらの視点でも暴力的で自尊心の強い癖のある人物として出てきたのです。そして登場シーンはおそらくトータルで2,3分ほど。
その2,3分で出てくる彼の言動がこの物語の奥行きと怖さをもたらしています。
同性愛者のことを「豚の脳」「病気」だと決めつけ、息子に病気を治すためだと言い暴力を振るう。彼の差別行為が、本作における「怪物とは何か」という答えに近づける重要なヒントでもあると思います。
また、別の角度から考えると、3つの視点は映画冒頭に起こるビルの火災をキッカケとしていることに途中から気づくはずです。
ビルの火災=炎上=SNSでの過剰な誹謗中傷を表しているのではないでしょうか。
「豚の脳」と言い放った依里の父の言葉は間違った情報として広がり、保利が湊に言ったことになり、さらにはその誤った情報を鵜呑みにして、正確な情報を掴めなかった早織の過ちすらも垣間見えてきます。
そして本作では、汚れの浄化のメタファーに沿った表現が随所に見られました。
早織の職場はクリーニング店、保利の趣味は本の誤植を見つけて出版社に知らせること、校長は常に学校の床を掃除しています。
彼らの潔癖主義的な描かれ方は、汚いものを見ると汚れを落としたくなる、社会からあぶれた不純なものを見ると、排除したくなることの表れです。
ビルの火災から起こる、誤ったSNS情報、過ちを犯した人物を徹底的にSNSで叩き潰すという昨今の日本社会の問題が見えてきます。
本作で描きたかった「怪物」。
それはきっと、「大衆から発せられる偏見と暴力」だと思うのです。
偏見という冷たい眼差しが、当人を苦しめ、暴力性を帯び、社会からの排除を促してしまう。 そういった社会の見えない空気感をひっくるめて「怪物」なのではないでしょうか。
ただそれでも、是枝裕和と坂元裕二は湊と依里にとって、救いのラストを用意していました。
嵐の後、湊と依里はお互いの気持ちに気づき、晴れやかな顔で山々を駆け抜けます。その表情は苦悩から解放され、全身で喜びを表現しているようでした。
彼らの明日は希望に満ち、明るい未来が見えてきます。
まとめ
本作の核となる「怪物」について考察してみました。
言語化するのが難解で、ちょっとまとまりのない文章になってしまったかもしれません。
けど、純粋に映画としても素晴らしい作品なので、大ヒットしつつ、他の海外賞も取ってくれると映画ファンとしては嬉しいですよね。
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