映画「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」 ネタバレ考察感想 アーサー個人の弱さを描き出した傑作に深い余韻が残る

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待ちに待った、2019年公開の『ジョーカー』続編が遂に公開となりました!本当に楽しみにしていたこの時が来ました!アメリカで公開されるや否や賛否両論を巻き起こし、批評家から酷評されまくったという本作をこの目で確かめるべく、早速観に行ってきました!

結論から言うと、個人的にはすっごい楽しめる映画でした。ただ、確かに酷評される理由も少し分かるというか、前作を超える衝撃はなく、ジョーカー映画に期待したものを意図的に外していってる狙いを強く感じました。

とはいえ酷評されるほどの内容ではなく、しっかりと続編らしさも残しつつ、新たなミュージカル映画の傑作が誕生したという印象です。

そして『フォリ・ア・ドゥ』では、一部IMAXカメラによって撮影されているため、グランドシネマサンシャイン池袋の今回もIMAX GTレーザーで堪能してきました!

鑑賞オススメ点数・・・80

あらすじ

理不尽な世の中の代弁者として時代の寵児となったジョーカー。彼の前に突然現れた謎の女リーとともに、狂乱が世界へ伝播していく。孤独で心優しかった男の暴走の行方とは? 誰もが一夜にして祭り上げられるこの世界——彼は悪のカリスマなのか、ただの人間なのか。ジョーカーは一体誰なのか?衝撃のラストに備えよ。(HPより抜粋)

以下、ネタバレ含みます。

(1)前作のダークなトンマナは全て踏襲し、ミュージカル要素満載の作風に

本作がミュージカル形式で物語が進行していくことと、アメリカで酷評されている情報が流れてきた時、最初に思ったことは前作の完璧に近かったダークなトーンと重低音の音楽性、美しいショットの数々・・・それらの印象的な『ジョーカー』が失われてしまうのではないか、と危惧したことでした。

ですがその杞憂は不要で、しっかりと前作のトーンを踏襲し、ミュージカルのポップな場面はありつつも、ジョーカーの登場シーンなど例の重低音が鳴り響く演出はしっかりと残っており、そこはホッとしたポイントでした。

なので、ハッキリ言ってそこまで「否」が生まれるのはなぜなのか、という感じさえしました。まぁ、前作の完成度が高過ぎたせいで、ファンからの期待値はテッペンに達していたことが、裏切られたと感じた人が多く、低評価が続出した結果なのでしょうね。

トッド・フィリップス監督曰く、本作において、ミュージカル方式を採用した理由は、単純に続編を描くだけでは意味がない、「往年のミュージカル映画」を取り入れることで、ジョーカーとハーレイクインによる狂騒をより強固なモノへと映し出す狙いがあったと語っています。

そしてこの「ただ続編を描くだけでは意味がない」という部分から読み取れるように、ミュージカル形式は、監督が選択した本作のテーマと結論、そこに起因しているのはないかと考えています。

詳しくは(3)で後述しますが、本作のテーマでもある「ジョーカーの脱神格化」を物語形式で描くことは、もちろんトッド・フィリップスほどの才能であれば、容易だったはずですが、その形式を採用すれば、前作を下回る平凡な映画が出来上がってしまうことを恐れたのではないかと思います。

前作が「悪のカリスマの誕生譚」でしたから、本作は真逆のテーマに突き進もうというわけです。

前作とは違うインパクトを残すためには、あえてミュージカルという非現実な手法を選択し、物語に深みと色彩を取り入れたのでないでしょうか。

(2)リーとの逃避行。愛は現実なのか妄想なのか。

ハーレイクイーンになる前の等身大の女性・リーが本作では重要な役を務めます。そこにキャスティングされたのはレディ・ガガ。
キャストが発表された瞬間、そして役のメイクアップをしたレディ・ガガのティザー画像が発表された時から、ガガの演じるハーレイが楽しみで仕方ありませんでした!

ガガ版ハーレイがやっと見られるというワクワク感たるや。

確かにミュージカルシーンは、想像していたよりかなり多く、若干退屈に感じた場面もありましたが、キャスティングが成功して、レディ・ガガの歌唱力によってそこもクリアになっているように感じます。
流石の表現力です。そしてジョーカーを演じるホアキン・フェニックスも予想外の歌唱力。
ハリウッド俳優ってほんと何でもできますよね〜

物足りなかった点で言えば、ガガはリーとして登場することがほとんどなので、ハーレイになりきる前で物語は完結してしまいます。

無茶苦茶になっていく悪のガガ版ハーレイも正直観てみたかったなと思います。

『フォリ・ア・ドゥ』では、監獄で出会うアーサーとリーの関係性に焦点が当てられ、リーのジョーカーによる歪な陶酔によって、アーサーも次第にリーに対して、恋焦がれていくようになります。監獄にいる瞬間は生きる精気を微塵も感じさせなかったアーサーですが、リーとの距離が縮まっていくと、アーサーは生きる活力に満ちていき、自信を取り戻していきます。

最初は全く出なかったジョークも、徐々に出てくるようになっていきます。

アーサーはリーの影響で脱獄を試みたり、裁判中もリーをひたすら探したりと、恋は愛にまで発展してきます。誰も愛してくれなかったアーサーを、初めて見つけてくれた愛しい人です。

しかしながら、愛の行き違いとは残酷なもので、リーが愛したのは「ジョーカー」だったのです。リーは、か弱く何の力も持たないアーサー自身のことは全く見ていなかった。
アーサーがアーサー自身に戻った時、ミュージカルで散々見せつけられた愛はあっさりと消え去ってしまいます。

まるで、そこまでの愛の軌跡が全てアーサーによる妄想だったんじゃないかと疑ってしまうほどに。

なんと悲しい物語なのか・・・誰かに愛され認められたかったアーサーの恋は、文字通り雲散霧散してしまったのです。

思えばアーサーは女性に狂わされる人生だったとも言えます。
幼少期の頃、母からのネグレクトから始まり、最愛の母に裏切られ、妄想の中で一方的に恋したアパートの隣人からも奇異な目で見られ、そして今回はリーからも捨てられてしまう。

アーサーの愛の逃避行は、またも女性によって打ち砕かれてしまうのです。

どうしようもなく悲しき運命です・・

(3)ジョーカーではなく、アーサー・フレックの人間性に迫る物語

本作の冒頭はアニメーションから始まりました。「ジョーカーと影」と題されたポップなタッチのアニメでは、ジョーカーとその影が相反する感情を持ち、影がジョーカー本人を棚に閉じ込めて、ジョーカーのメイクをしてテレビ番組に出演するという物語でした。ジョーカーも影を追って、慌ててテレビ番組に出演しますが、裸のため恥をかかされる・・・というストーリー。

冒頭数分で本作のテーマや結末を示す、非常に示唆的なアニメでした。

前作『ジョーカー』では、複雑な事象が重なり、悪のカリスマが誕生する構成になっていましたが、『フォリ・ア・ドゥ』における作品テーマとメッセージは、とても分かりやすく単純化されたものに感じました。だからこそ、心に深く刺さるものだったのだと思います。

ひと言でテーマを表せば、「ジョーカーの脱神格化」ではありますが、裁判によってジョーカーではなく、アーサーという一人の人間に焦点を当てようという超実験的な試みです。

裁判が始まると、見逃せない重要なシーンが連続して続いていきます。

ジョーカーはアーサーと別人格なのか?という視点から裁判の議論が展開され、弁護士をジョーカー自身が解任した辺りから、物語の雲行きが一気に怪しくなっていきます。

裁判をテレビの生放送で流すというゴッサム中が見守る異例の取り上げによって、ジョーカー支持層がさらに熱を帯び、ゴッサムを分断させようとします。
ジョーカーがメディアで取り上げられ、信者がさらに熱狂的になっていく様子を見て、アーサーは大衆から求められるジョーカーであろうと躍起になります。

裁判では、ジョーカーと関わりのあった人間が次々と証人喚問され、ピエロの事務所で同僚だったゲイリーの登場によってアーサーの感情は狂わされていきます。証人はジョーカーであるアーサーに畏怖の対象として語り出すのに対して、ゲイリーだけは違いました。最後までアーサーと向き合い、本物のアーサーをジョーカーの中に見ていたのです。

涙を流しながら、「君だけは僕に優しかった」このセリフがジョーカーをアーサーたらしめる本作における非常に重要なセリフです。
アーサーの本質をついた、個人的にも凄く好きなシーンです。

そして、最終弁論。様々な想いが交錯し、アーサーが出した結論は、「自分はジョーカーではない」と告白することでした。大衆が望むジョーカーには到底なりきれない。矮小でひ弱で特別な力など最初から持ち合わせていないアーサー・フレックという人間が、自分の妄想を超えて大きな力を偶発的に持ってしまった。

皆が望むジョーカーを演じなければならないとプレッシャーに苛まれるが、彼は本質的に悪のカリスマなんかではなかったということを自覚してしまうのです。ジョーカーであろうとしたアーサーの苦悩を最後に告白し、トッド・フィリップス監督はジョーカーの物語の全てを終わらせようとします。

『フォリ・ア・ドゥ』では、妄想の危険性、大衆が求めた悪のカリスマなど虚像に過ぎないことを証明してみせました。

2019年に『ジョーカー』が公開されるとすぐに、映画に触発された人々が実際に銃乱射事件を起こし、製作側の想定を遥かに超えた影響力を持ってしまいました。創作で妄想であるはずの映画に、本当に感化されてしまったのです。

悪のカリスマなど存在しない、全ては妄想である。大衆が熱狂した『ジョーカー』は夢のような妄想の物語であり、現実とは無関係である。トッド・フィリップス監督は、自分で予期せず作ってしまった世界のあり方を、自らの手で終わらそうとしたのだと思います。

映画のラストで、アーサーは監獄の中で受刑者の一人に腹を刺されてしまいます。アーサーを刺殺した囚人は「必ず報いを受ける」と言ってアーサーをナイフで滅多刺しにして、自らの口をナイフで裂くような動きをします。(アーサーを刺殺したこの若い受刑者が、その後バットマンと戦っていくジョーカーになる可能性を示唆)

最後の最後、劇中でアーサーを殺し、全てに決着をつけた。
「お前ら、映画は娯楽で空想の物語だろ!?何本気にしちまってんだよ!今回はミュージカル仕立てで空想感マシマシにしたから、祭りは終わりだ!!」
トッド・フィリップス監督からこう言われて顔面をはたかれているような感覚です。

この物語に続編は存在させないと声高らかに宣言し、夢の祭りを終焉だと言ってみせる。ここまで潔いラストがあるのかと、感動しました。

本作は「ジョーカーのその後」ではなく、アーサー個人を見つめ直し、人間として捉えた非常に繊細な人間ドラマだったわけです。ヒーロー映画でもアクション映画でもなく、これはアーサーのヒューマンドラマです。

まとめ

トッド・フィリップス監督は、ジョーカーの続編は作らないと既に明言しています。元々『ジョーカー』の単独映画で想定されていた映画だったので、まぁ、納得ではあります。
さらにDC映画に関わるのも本作が最後と明言していることから、ハーレイクイーンの単独映画を製作する可能性もかなり低そうです。

残念ですが、ヒーローとヴィランに関することは既に語り尽くしたということでしょう。

世界で賛否両論を巻き起こした『フォリ・ア・ドゥ』でしたが、私は肯定的にこの映画を捉えました。確かに、続編が発表されてから何年も求め焦がれていた、悪のカリスマになった後のジョーカーとハーレイの物語は観られませんでしたが、アーサーを人間として捉えた価値のある傑作だったと思います。

何より、鑑賞後の余韻がとても深く、またアーサーとリーに会いたくなっている自分がいることに驚いています。

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