映画界の巨匠スティーヴン・スピルバーグがついに自伝的な映画を作った『フェイブルマンズ』を鑑賞しました。今回はその考察と感想を書いていきたいと思います!
自身についての詳細をあまり語ってこなかった天才監督が、自分のストーリーを語るということで、公開前から話題になっていましたね。
しかも第95回アカデミー賞にも7部門ノミネートということで、オスカー獲得の期待も高まる本作。
スピルバーグが幼少の頃から抱えてきた葛藤や映画愛、呪縛を余すことなく3時間を使って描かれていました。
観賞後は多幸感と呆然とするような奇妙な感覚に襲われ、もうさすがのスピルバーグとしか言いようがありません。
鑑賞オススメ点数・・・100点
あらすじ
初めて映画館を訪れて以来、映画に夢中になったサミー・フェイブルマンは、8ミリカメラを手に家族の休暇や旅行の記録係となり、妹や友人たちが出演する作品を制作する。そんなサミーを芸術家の母は応援するが、科学者の父は不真面目な趣味だと考えていた。そんな中、一家は西部へと引っ越し、そこでの様々な出来事がサミーの未来を変えていく。(HPより抜粋)
以下、ネタバレ含みます。
(1)繰り返される映画表現の原点が紐解かれる
スピルバーグ作品には一貫して描かれてきた作品のテーマや設定があります。なぜその設定を執拗に繰り返し使い、こだわっていたのか、本作でかなり具体的な描写とともに明かされることになりました。
まずは映画の舞台が郊外という設定。『未知との遭遇』や『E.T.』『ジョーズ』『ウエスト・サイド・ストーリー』などいくつもの作品で使われてきた舞台設定です。これはスピルバーグが元々都会ではなく郊外に住んでいたことから設定していたのだということが分かりました。
劇中でも父の転職を機にニュージャージー、アリゾナ、カリフォルニアと2回の引越しを経験しています。郊外から段々都会に出ていく過程というのは正にスピルバーグ一家の辿った地理的変遷だったわけです。
そして「父性の不在」という設定もよく使われてきました。主人公が大人であれば離婚経験者か、あるいはある出来事によって家庭が崩壊する父親。子供が主人公の場合は親が離婚していたという設定が非常に多いのです。
これもスピルバーグが十代の頃に両親が愛し合いながらも離婚したことから崩壊した家庭にこだわって描いていたのだと分かります。崩壊した家庭を描きながらも、必ず最後には救いのシーンを入れてきたスピルバーグは、きっと両親に対して再婚を望んでいて、自らの作品でその夢を叶えてきたのです。
本作では、「家族」が最大のテーマになっており、これまで描かれてきた「コミュニケーション」という普遍的なテーマとも共通します。家族愛、特に母への愛が猛烈に描かれており、幾度も抱擁する描写があります。亡き母へ作品を通して想いを馳せているかのようでした。
コミュニケーションの中でもとりわけ「手」をカメラに映す事が多かったスピルバーグですが、本作でもサミーが最初にカメラの映像を観るとき、自らの両手に投影するという象徴的なシーンがありました。
『シンドラーのリスト』や「ショアー財団」を立ち上げたことにも起因しますが、スピルバーグは昔からユダヤに対して強い関心を持っていました。 それもスピルバーグがユダヤ人であり、カリフォルニアではユダヤ人であることをきっかけに激しいいじめに遭っていたことも明かされました。
恐らくこの時のいじめの経験が、ユダヤ人であることを自覚させ、先祖が虐殺された種族だという事実から反ユダヤ主義の映画を作っていたのだということもハッキリと判明しましたね。
(2)狂気と孤独が入り混じる映画製作の危うさ
本作の宣伝や予告を事前に見ていると『ニュー・シネマ・パラダイス』のような子供の頃の夢を叶える映画愛に溢れた映画なのかなと思っていたし、ほとんどの観客はそう思っていたはずです。
しかし、実際に語られたのは巨匠監督による、狂気的な映画に対する執着と危険な映画製作の物語でした。
サミーの映画に対する愛情は幼少期に家族と観た『地上最大のショウ』が始まりでした。列車と車が衝突するシーンに魅了され、列車のおもちゃを何度も衝突させ、それをカメラに収めたところからスピルバーグの映画監督としての人生は始まったような描き方でした。
この時すでに「衝突」にこだわるサミーの興味は「暴力」にあったのではないかと思います。そして、スピルバーグ第一作のテレビ映画『激突!』もこの衝突から影響を受け製作したのではないでしょうか。
家族行事の記録係から始まったサミー少年のキャリアは、次第に妹たちを被写体とした「物語性」を帯びていき、さらに「演出」が加わっていきます。十代になると友人を数十人集め本格的な自主映画を制作し始めます。そしてきちんと先生や友人たちに向けた「映画上映」も行っていくのです。
映画制作にのめり込んでいくサミーはある日親戚のボリスと出会い、自身の核となる教えを授かります。
家族と芸術に君の心は引き裂かれるだろう。
ボリスからのこの教えは、後のスピルバーグ作品が持つ二面性を実に端的に表しています。スピルバーグはこのボリスとの出会いから今まで、半世紀に渡って孤独に映画を作り続けてきた異常な精神性の持ち主なのでは、とも思います。
ボリスと出会ったこの頃、サミーはナチスをテーマにした戦争映画を撮ることを望んでいました。しかし、両親は戦争映画なのではなく、家族とのキャンプの記録映画を撮ってほしいとサミーに頼むのです。自分が本当に撮りたい暴力性を秘めたものと、愛する家族から望まれるつまらない記録映像、この苦悩と葛藤がスピルバーグの両犠牲の発現なのです。
1993年、スピルバーグは『ジュラシック・パーク』と『シンドラーのリスト』を同時に公開させています。同じ年にエンタメ娯楽超大作と戦争映画を同時に製作しているのです。こんな異常なことをできる監督は過去も未来もスピルバーグしかいないのでは、とすら感じます。
子供から大人まで楽しませる娯楽映画を作る一方で、心に深く突き刺さる暴力をテーマにした作品も数多く作っており、この狂気的な二面性は思春期の苦悩から来るものだと考えられます。
(3)映画が映し出す現実と嘘
『フェイブルマンズ』が狂気的だと感じる最大の事件が劇中で起こります。
家族とのキャンプを記録映画として父から頼まれたサミーは、仕方なく編集を行っていると、知りたくもなかったある真実を偶然発見してしまいます。
それは「母の不貞」。
母と父の親友・ベニーが男女の仲にあると偶然カメラに収めてしまい編集時にそのことに気づいてします。その事実をサミーは最初誰にも言わず心の中に留めました。
思春期の頃、愛する母の浮気を自らの行いで発見してしまったら、どんな感情に陥るのか。正直想像すらできません。しかしサミーは家族の崩壊を避けるべく、その秘密を守ることを一旦は選択しました。
時が経ち、その秘密を母に打ち明けるときに選んだ手段が、「自分で編集した浮気の一連のシーンを繋いで母に上映する」という行いでした。
鳥肌立ちまくりの、このおぞましいシーンを誰が予想できたでしょうか。
映画とは、真実を炙り出すことができるものである。とサミーはこの時に明確に気づいたのです。さらに、母が離婚と別居を申し出た時、サミーの頭にはこのシーンをカメラに収めたいという激しい衝動に駆られている事が示唆されます。サミーはこの時すでに、映画の魔法に取り憑かれており、自分の家族の不幸の場面すら、映画にしたいと考える様になってしまったのです。
実際、直後のシーンで編集を行うサミーに対して、妹は激怒します。普通の人間ではなくなってしまっていることがここで分かります。
父の転職を機にカリフォルニアに移動したサミーは、ユダヤ人であることと体が小さいことが原因でいじめに遭ってしまう。しかし、海水浴のイベントで映画制作を頼まれたサミーはそれを引き受け、プロムで編集した映画を上映することになります。
映画ではサミーをいじめていたローガンをまるでスターのように、チャドを女子から人気のないショボい奴として描くのです。上映が終わると、ローガンは学校中のスターのような扱いになっており、ローガンは困惑を隠せません。
プロムの後、ローガンはサミーに「なぜ嘘の編集をした?」と問い詰めますが、映画には現実をねじ曲げ、嘘を現実のように作り出す事ができる力があると気づかされるのです。
サミー少年が映画を通して、実際に体験した現実と嘘。
作り手の主観、カメラのアングルや編集の仕方ひとつでいかようにもコントロール可能で、自在に操る事ができる。 それはさながらプロパガンダのようですが、実際に映画は虚実織り交ぜたメディアであり、使い方次第で恐ろしいメディアにもなる危険性を示しています。
映画には、真実と嘘、両極端な概念を作り手次第で変えられる、恐ろしくも魅力的でもあるのです。
(4)受け継がれる映画の意志。ジョン・フォードからスピルバーグへ
『地上最大のショウ』に感銘を受けたサミーは少年の頃から映画を作り始めますが、その手法はさすがスピルバーグといったもので、映画制作のシーンはとてもワクワクしました。
最初にサミーが列車の衝突シーンをおもちゃで撮影した時、すでにその映像は映画になっていました。カット割と地平線を変えたアングル、衝突シーンだけでその天才の片鱗を見せ始めます。
ボーイスカウト時代は西部劇やナチスの映画を撮り、血糊や爆竹、フィルムに穴を開け銃の発砲に見立てる工夫を行なっていました。さらに、映画撮影に必須である特殊機材・ドリー撮影すらパイプ椅子にカメラを乗せ、板の上を滑らせるという子供のアイデアで実現させます。
プロムで見せた映画では単なる記録動画ではなく意図的な「演出」を加えていました。空飛ぶカモメと被写体を交互にカットバックし、カメラの後ろで被写体にアイスをたらすことで鳩のフンが落ちてくるように見立てているし、高校生カップルのキスシーンはパラソルを置き一瞬隠すことで笑えるコメディのシーンに変化させた。ただの課外活動の記録映像だったはずのものを、学校中のみんなが楽しめる娯楽映画に変えてしまった。
存在しているもので工夫して撮るというアイデアと発想力は、若くして常人とはかけ離れたものがあると痛感してしまいました。
それは、私自身が学生時代映画制作を行い、その大変さを知っているからこそ、余計に感じてしまったことでもあります。学生が出せるなけなしのバイト代、機材の無さ、そういった様々な事情から低予算のヒューマン映画を仕方なく撮っていましたが、工夫とアイデアがあれば戦争アクションまで撮れるのだと、巨匠の天才ぶりを観て、天才は最初から天才なんだな、と思ってしまいました(笑)
ラスト5分では、映画ファンへ向けた贈り物のような尊いシーンがありました。20世紀半ば、映画の神様と評されたジョン・フォードとの邂逅です。
フォードから教わる、核心をついたアドバイスがスピルバーグをプロの監督としてのキャリアのスタートとなったのです。
20世の映画の神様と21世紀の映画の神様、この2人のバトンが繋がれる瞬間を映像として観ることができて感無量です。
映画はこうして脈々と受け継がれ、意志は残り続けるのです。
「地平線を上か下に持ってこい。中間にした途端つまらなくなる。」
フォードのアドバイスを聞いたサミーの顔は晴れやかで、スタジオを出たサミーを追うカメラの地平線は中間。中間に気づいたカメラは慌てて地平線を下に修正するという粋な演出でエンディングを迎えます。
ラストカットは映画愛溢れるスピルバーグならではの最高に粋な演出でした。
ただ、このシーン、一見すると映画のアングルの話ですが、フォードから映画を撮ることに対する覚悟の選択の話でもあります。
上か下か、芸術か家族か。究極の二択。ボリスの声が蘇ります。
両方を選ぶことはできない。さぁ、スピルバーグ、お前はどちらを選び、映画という魔法の世界に足を踏み入れる?
映画の神様からそう問われたサミーは、これまでの葛藤が抜け落ち、晴れやかな顔で虚構の世界に身を投じる覚悟を決めるのです。
これは映画愛を語る物語では決してない。
21世紀を代表する映画の神様になりつつあるスティーブン・スピルバーグが映画という虚構の世界に身を投じ、映画をひたすら作った半世紀、心を引き裂かれた続けた青年の自伝的作品なのです。
まとめ
映画を愛したスピルバーグがついに作った自伝的映画『フェイブルマンズ』。
まさか、このようなテーマで来るとは・・・想像もできませんでしたが、間違いなく傑作だと思います!三度目のオスカーも獲得して欲しい!!
ジョン・フォードとのラストシーンは最高だったし、これからもスピルバーグ作品は追い続けなければならないと思わせる究極の一作でした。
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